「被認知依存」。造語(主語:私)。他で使って恥かかないように。
情報機器が飽和状態になって、本来使う側の人間が使いまわされてる。
「ニフティ」の頃までは、目新しさもあったが、
ミクシィー、ツイッター、フェイスブック、LINEはどう考えても胡散臭い。
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どこで、どのように私を捕まえようとするのか、粗忽家勘朝に入会お誘いメールが来る。
無視していると、丁寧な、手続きメールまで来る。
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認知されたい(被認知)欲望は誰にもあるのだろうが、度を越している。アディクション。
誰かに認知されてないと不安になる。アディクション=依存。
仕事仲間・飲み仲間・落語仲間・単車仲間・なぞの仲間とで、社会と繋がってるが、もうこれ以上「仲間」は要らない。
逆に隠居生活に突入するため、「仲間」を減らしていかなければならない。
仲間に認知されたい欲はいいが、その前に「仲間」そのものに意義があるかどうかがカギ。
どうしようもない構成員の仲間なら、さっさと切った方が、充実した人生が送れる。
何しろ、残された時間は少ない。無駄なSNSで日常を犯されるわけにはいかない。
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なぜ、昼飯で自慢しあうようになったのだろう?
他人の晩飯自慢を読んで、どう思うのだろう?
他人の誹謗中傷で自分の価値が上がると思うのは?
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『何者』。浅井リョウの直木賞読んで、ちょっとは若者ネット文化に接したつもりだったが、無理だった。
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己が、今、何処にいて、普通の体験をしていて、それを自慢する了見。
匿名性の中で、変にこだわった意見を第三者に晒して、勝ち誇った気分になってる了見。
愚にもつかない正義をふりかざして、その痕跡に一喜一憂する了見。
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表現したいのだろうけど、表現される価値が全くない。
さびしくて、右翼化。
右翼の宣伝カーは、誰もいない島根~鳥取・の国道9号線にいない。
見物客がいない、神輿は惨め。
それと、同じ。
コレ読んで、怒る方は、ちょっとアブナイ。
そういう方は、表現する側は無理。
自覚する了見もない。
返信不要。