内浜落語会の全体稽古を、堂々とプロの二つ目を張っている「柳家さん光」が
「さらし首」と表現した。「集団いじめ」とも言ってた。
誰も笑わないし、きつ~い事も容赦なく浴びせられる。号泣までは行かなくても、そっと涙する者もいる。
ここで傷ついて辞めて行った者もいる。
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プロは真打ちの師匠がたから「あげ」てもらう。
われわれにはそう言った師匠はいない。だから全員でプロの師匠と同じ役割で、稽古を着ける。
不思議なことに、全体稽古を通ると、間違いなく上手くなる。
ばしばし叩かれてこそ上手くなる。
「稽古は強かれ、情識はなかれと也」
『風姿花伝』世阿弥
勘春の前に大きな芸の壁がそり立ってる。
誰もが超えてきた、私も、勘楽も、勘也も、勘心も、勘仁(さん光の昔の名前)も、楽狐は学生の時超えている、そり立つ壁。
必ず超える、全体稽古で皆が超える技術を啓示している。
全体稽古で叩かれないと、超えられない。そして上手くならない。
内浜のクオリティの原点。
ふとしたきっかけで上手くなることがある。回り道で見つかることもある。
ただ、それは稽古の中にしかない。