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禁忌実験

 教育現場は臨床現場ではないので、対象(子ども)に対して実験検証をやってはいけない。

 法的規制は知らないが、倫理的にやらない。
 例えば、Aという学習訓練をやったグループとやらないグループでの1年後の学習成果なんて、発表しようものなら、大騒ぎになる。

 これが、意思決定を持つ青年や、臨床なら許される。
 でないと、新薬開発は無理。

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 親なら一度はやってみたことがあるだろう
 0歳児~1歳児前後に鏡を見せる。
 長期継続実験では、人格形成に支障をきたすから、厳禁。
 ほんの一瞬という条件で。 
 
 ある時期を境に、劇的な反応を見せる。

 自己同一性をいつ認識するかの境界が解る。

 乳児期は鏡の己を他者だと思い、笑顔のコミュニケーションをとる。
 この時期笑顔をとれない子は母親の笑顔が不足している。

 3歳児前後にアイデンテティーの調和がとれる。
 「なんで私があそこにいるの???」キョトンとして親の顔を見る。親が笑顔なら、安心して鏡の向こうの自分を受け入れる。間違っても親が演技で慌てたりすると混乱して、混乱して泣きだす(ハズ)。知らない。やってみたいけどこれこそ禁忌実験。

 チンパンジーはあわてるけど、泣きだすことはない。類人猿で泣くのは人間だけ。

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 さて、ココからが本題。

 これを【鏡像段階論】という。ラカンという記号論者が提唱。

 人間は発達段階として他者を通して自我を認識する。

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 ヒトは、自分を認識できない段階がある。
 
 私が言いたいのは

 自分を認識できない者が登場する、記号論落語がある、ということ。

 『粗忽長屋』
 あの八っつあんの。
 「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいったい誰だ?
 の落語史上最高の名セリフ。
 考えれば考えるほど深みに入る。

 ラカン先生に訊いてみたい。

 きっと答えられない。答えられるわけがない。
 記号論より落語の方が歴史がある。

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2013年09月21日 20:14に投稿されたエントリーのページです。

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