先日ウィルス性のおう吐下痢で、床に伏せた。
仕事中毒なので、おう吐をおさえる薬を飲みながら持ち授業だけは、責任を果たした。
早く治したいので病院へ。そこでトラブル。
「何食べましたか?」
「はい、〇〇〇をたべました。」
「はい、では検査しましょう。」
「何の検査ですか?」
「炎症検査と、検体検査です。」
「炎症検査だけにします。」
「えっ?」
検体検査は拒んだ。
もちろん、赤痢だとかコレラが疑われるときには、保険所が介在して、検査を受けなきゃならないシステム、法的根拠はある。
だが、たかが素人病人に検査は要らない。
病院の余計なお世話にはウラがある。病院経営のための錬金術。
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今日の本題はここ。
病気も、死も、含めて、自分の体のことに関して、最終決定は自分が持つ。
たとえ、それがしくじってたとしても、自分で下した責任だから、それでいい。
それが、自己決定権。
食、教育、医療、の現場で、よくしたり顔したエキスパートが
「あなたのためなんですから。」という。
多くがウソ。
教員、医者、弁護士、官僚、警察官が言うことの多くは、自己保身。
(自己保身で言葉が厳しいなら生命保持。この生命は社会学的な生命。生物学的に生きてても、社会学的に機能してない命もある。)
つまり自己満足のための詭弁だと思っていい。過激な意見だけど的は外れてない(と思う)。
教員、医者、弁護士、官僚、警察官の彼らも資本主義経済の中で生活している。自分の属している社会への利敵行為はしない。
宗教家ほどには悪辣(あくらつ)な稼ぎはしてないだろうけど。ベクトルは同じ。
それに早く気がつきたい。
教育現場で35年間エキスパートで働いて、しかも名先生と言われた、粗忽家勘朝が言うのだから信ぴょう性はある。
学校の三者面談。
病院の診療室。
警察の取り調べ室。
戒名に何を付ける。(戒名の付け方に関して、とある住職に尋ねたことがある。ひっくり返った。宗教界の裏を見た。ここには書けない。)
での決定権はコチラにある。
ゆめゆめダマされてはいけない。
志望校に落ちても、命が半年縮んでも、起訴されても、自分で決定したのなら満足いく(ハズ)。
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恋愛または結婚 する / しない の決定。恋愛または結婚相手の選択。
子供を持つ / 持たない の決定。
医療に関する問題 自分が受ける通常医療や代替医療の種類の選択
医師や施術者などの個別的選択
死に場所の選定、死に方の選定
等々まだまだ私たちにはいろんな自由が保障されている。
自分の人生だから、自分勝手にさせてほしい。