ある通夜に参列して、そこの導師が『無常』について語る。
語りが異様に上手かった。会場の広さ、人数、雰囲気に的確に応じて、語る。マイクはない。マイクがあったら伝わってこなかった。
蓮如の『白骨の御文章』。どこか忘れたが、一度読んだか、聞いたことがある。小林秀雄か、五木寛之か、その辺りの小難しくて、辛気臭い文章だった。
今回、語りの上手さもあり、すっと入る。
とかく、『死』は難しい。誰もが知ってるのに、誰も経験したことがない。そして、経験則として残らない。
生命の営みを過大評価することは、近代思想の過失だ(と思う)。
科学は宗教から離脱して成長し続けている。しかし、器の大きさは宗教の方が大きい。歴史が違いすぎる。
ネアンデルタール人にも宗教があったらしい。(それを科学が証明しているところが、面白い。)
今回の、天変地異と、その後の対応をどうとらえるか。まったく難しい。
街に出たら、多くの女子高校生が募金活動をしている。その前を素通りすると、10代の、純情かつ、善意の瞳が、非難の色でまとわりつく。彼女らに「ナンテ、いやなオヤジなんだろう。」って思われてる。困ったもの。
悪いこと何もしてないのに。
誰しも、50年生きてたら、10代の異性によく思われたい。これは悪いことなんだろうか?ここが言いたい。
彼女らは『蓮如』も『白骨の御文章』も全く知らないのに、『死』は知っている。
無常。人生で、一番生命活動の旺盛なものには不必要な考え。