昔から少々偏った映画の見方をしていた。誰が教えたわけでもなく、いつの間にかそういう見方をするようになっていた。
では、まず初めに『駅馬車』(J・フォード)から。大迫力の映画。映画はヨーロッパで発明されて、深化してきたものだけど、それをものの見事にひっくり返したのが、監督J・フォードといってもいい。しかも『駅馬車』は彼の代表的な作品。誰もが評価する。確かに素晴しい。そのスピード感とアクションはその後のどの映画も凌駕しきれてない。
が、しかし、勘朝は敢えて異を唱える。何故か、それは脚本が差別に満ちあふれているから。
始めてこの映画を観たのは中学生の頃『日曜洋画劇場』で。淀川長治が解説していた例のTV映画。その頃はビデオ屋なんて無かったから、TV映画を食入るようにしてみた。
淀長(以後表記はこれで)さんは絶賛していた。視聴者側もその淀長のプロパガンダに煽られてみていた。しかし、勘朝は違った。
ストーリーは単純明快。勧善懲悪。善は騎兵隊。悪はインディアン。
そろそろ読んでる方は気が付くだろう。
なぜ先住民であるインディアンが『悪』なのか!
そこにまだ中学生の勘朝はこだわった。
もともと土地はインディアン(この表記もおかしい、ネイティブアメリカンが正しい)のものなのに、そこにフロンティア精神なんていう歪曲手前勝手美化文言で繕っても矛盾に気づくものは気が付く。
ネイティブアメリカンこそが被害者であり、開拓民を偽装したアングロサクソンこそが『悪の加害者』であるはず。
ハリウッドが創る『西部劇』はずーっとこの路線をたどる。不幸な映画の見方が始まる。淀長はそこに気づいていたにもかかわらず、TV局のいうがままにJ・フォードを評価している。提灯持ちに成り下がっている。
映画は体制派側に寄り添ってはいけない。淀長の最大の汚点だと思う。(続く)