落語をはじめ、語り芸は、言葉を媒体・触媒として文化を伝承してきた。言葉には、ポジもあれば、ネガティブもある。
語り芸が、言葉のネガティブ面を怖がっていた時期もある。隠したままでは、語り芸の思考停止。
停止でいいわけがない。
桃太郎師匠が四半世紀前、浅草で言いたかったのはこれ。
『建設業者調べ』で演れるわけない。なぜ『大工調べ』でないといけないのか。
『王子と乞食』『ちびくろサンボ』が、一時期表舞台から遠ざかったこととも、大いに関係している。『おばけのQ太郎』『ジャングルくろべー』が完全に姿を消している。元をただせばここにたどり着く。
落語を志す者にとって、言葉、表現にこだわりすぎて、やむことはない。
落語は、ただ覚えて、そのまま演ってりゃいいってもんじゃない。
言葉は一度演者の体をくぐって、演者の生活や考え方イデオロギーを内包させて出てくる。
そうでない落語は、聴いてて退屈なだけ。親戚だけが集まる【ピアノの発表会落語】でしかない。
誰とは限定しないが、発言の過激な噺家さんの落語を支持するお客が集まるのは、そこ。
25年前の桃太郎師匠の高座。理解出来るようになった、ようやく今頃、落語演って35年。長かった。