ボランティア、百花繚乱。
今日もTVで、高校生のボランティアが流れていた。インタビュー受けていた高校生が、ほぼ100点満点の答を述べていた。大正解。発言に間違いはない。
でもねぇ・・・と思うのは私だけか。
高校生は、美しくない。15歳のころ。昆虫でいえば変態の頃。変態中の生物はもがき苦しんで美しさとは無縁の時期。それを越えた時生物は美しくなる。だから20歳前後のヒトは美しい。ギリシア彫刻はこれを追求している。
本来生物学的に、高校生は、一番野心旺盛な時期。種族保存にのみ邁進している時期。
それが、カトリック教徒や、修行僧のように自己を押えて、美しく振舞うのに違和感を感じる。
以前付き合っていた女性。
とあるボランティア活動に励んでいた時期があった。
ある時尋ねた。
「どうして、ボランティアした?」
信じられないが、とても正直な答えが返ってきた。
「採用試験で、ボランティア活動が訊かれる。」
なんの悪びれることなく、返って来た。若者の本音はこれだろう。これでいい。これが若者。自分の力で生き延びなければならない。
ボランティアはいつの間にか就職・進学の、必須アイテムになっている。ボランティア精神からは程遠い。
本来ボランティアは、とても恥ずかしくて、人目にさらされるのは、憚られる行動。
それを、マスメディアに堂々と顔をさらして
『ボランティアは人間として当然ですから』顔されると、こちらが赤面する。
ソフトバンク社長の100億円もイチローの10億円も、こっそりやらなければならなかった。
「あの人、散々稼いどきながら1円も出さない。」とたたかれて、厚顔かまして稼ぎまくって、裏でこっそり金を出してればいい。
誰も評価しないけど、自己満足していればいい。自己陶酔の世界。アレといっしょ。
ボランティアは所詮そんなもの。
明治以前、ボランティアなんてなかった。日本人の美意識は【ボランティア】を言葉で表すことさえ、恥ずかしいものとしていた。
徒然草にも書かれてる。
『七人の侍』の名場面。
左朴全がコメを盗まれて茫然としている。木村功が、なけなしの金を渡す。
朴全、御礼、木村赤面して、立ち去る。登場人物は誰も知らないまま、映画は進む。映画を観てる者のみが知っている。
これが『施し』。ボランティアこそ匿名でやるもの。
内浜落語会は何もしない。自己陶酔は勝手。人に宣言してやるものではない。
ただボランティアが、無垢な陶酔感を味わわせてくれるのは間違いない。
マスコミに出たり、第三者に評価された時ボランティアでなくなる。その時から売名といわれても仕方がない。